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御寺泉涌寺塔頭 即成院 公式サイト
京都市東山区寺山内町28

源義経の家来であった那須与一は、義経の命を受け京に向かう道中、突然の病に倒れました。伏見で療養していた際、与一は、熱心に即成院の阿弥陀さまを信仰したそうです。そして、その霊験で病も癒え、「屋島の戦い」では、平家の船上に掲げた扇の的を見事一発の弓矢にて射抜くという素晴らしい武勲を立てたとされております。
与一はその後、即成院の阿弥陀さまの仏徳を感じ、京都に凱旋して戻り、すぐに出家し、残りの後半の人生を「源平の戦い」で、亡くなった方々の菩提を弔うという人生の選択肢をとり、京の地で平穏に暮らしましたが、最終的には即成院の阿弥陀さまの前で亡くなりました。そしてその後、境内には与一の遺徳を讃え、巨大な石塔のお墓が立てられました。
現在、即成院には、那須与一の功績にあやかろうと、成功を願う多くの人々が、扇に願い事を朱色で筆書きし、「願いが的へ」と、与一の石碑に奉納されます。即成院では皆様から奉納された「願い扇」を、御本尊阿弥陀さまへご祈願の後、那須与一の墓碑にご奉納させて頂き、年に一度の大護摩法要にて、お焚き上げをし、大願成就をお祈りいたしております。

「 与一鏑を取ってつがひ、よつぴいてひやうど放つ 」
『平家物語』に描かれた、屋島の合戦の名場面である。源平の戦いが終盤を迎え、一ノ谷の合戦で、源義経率いる源氏に敗れた平家は四国・讃岐の屋島へ。海岸に陣を敷いた源氏に対し、海へ逃れた平家の舟が一艘。一人の女人が船首の竿に日輪の扇を翳して言う。「この扇を射てみよ」
平家からの挑戦を受けたのが、当時、弓の名手として、飛ぶ鳥三羽のうち二羽は必ず落とす天才と称された那須与一。この時十七歳であった。義経の命令を「し損ずれば源氏の恥になる」と一度は断った与一だが義経に「私の命に少しでも異を申す者は即刻鎌倉へ帰れ」と厳しく言われ、覚悟を決める。馬に乗り、海に出て、狙いを定めた。
見事に的を射た場面を『平家物語』は次のように表現する。「夕日の輝いたるに、皆紅の扇の日出したるが白波の上に漂ひ、浮きぬ沈みぬ揺られければ沖には平家、舟ばたをたたいて感じたり。陸(くが)には源氏、箙(えびら)をたたいてどよめきけり」
的を外せば自らの死をもって償わなければならないこの場面に、与一は何を思っただろうか。『平家物語』では「南無八幡大菩薩、我国の明神、日光権現、宇都宮、那須の温泉大明神……」に願ったとされる。しかし実はそれよりも、当時与一が信仰していた即成院の本尊・阿弥陀如来の「与一よ迷うことなかれ」の声に後押しされたのだと伝わる。
与一は屋島の合戦以前に、義経の命を受けて出陣の途中、下野国(今の栃木県大田原市)から京都に向かう道中で病にかかり突然倒れている。京都伏見で療養していたおり、即成院の本尊・阿弥陀如来の霊験を聞き、院にこもって病気回復を祈ると共に戦いにおける戦功を強く願い続けました。与一の祈りは通じ、阿弥陀如来の霊験で病が癒え、見事健康をとり戻した与一はまさに体調万全のかたちで屋島の戦いに挑むことが出来ました。ちなみに即成院が現在の京都東山の地に移ったのは明治時代のことである。
  与一は屋島の合戦の功績で丹波、信濃、若狭、武蔵、備中の五州を与えられ、下野守となったが、京に戻り任官お礼の御所参内の後、きっぱりと武道を捨て、恩を受けた即成院の庵で源平の戦いで亡くなった多くの方の菩提を弔い、出家し、信仰の生活を送り三十四歳で即成院の阿弥陀さまの前で亡くなり、大きなお墓を残しました。
また、京都の龍谷大学・仏教大学の二つの大学の弓道部には今も弓道の那須流の教えが残っている。那須の当主を継いだ与一の弓の教えが全国でこの二つの大学にだけ残っている事実は那須与一が晩年、京都の人たちに慕われながら最期を即成院で迎えられたひとつの証(あかし)となるでしょう。

— 阿弥陀仏の功徳あらたか —
即成院には、鎌倉時代に造られた約三㍍の巨大な与一の墓が現存する。与一の願いがこもった矢が船上の扇の的に当たったことから、『願いが的へ』と祈願扇に願いを朱書きにし、病気平癒、受験や恋愛など諸願の成就や、近年は起業家たちが企業の上場祈願などの大願成就を祈り、厄除・開運祈願に参拝者が全国から訪れられています。
※只今地形調査の後、与一堂内床下樹木を取り除く作業遂行の為、足下不安定でご迷惑をおかけしています。